参照元アンティークジュエリー・シェルシュミディのHPもぜひご覧ください。
貧しい出身から、若くしてファッション界で大成功したココシャネル。
シャネルの才能は、その才能を早く見抜き支援をした一部のフランスの上流階級によって開花し、そして成功後のシャネル自身も、若い人の才能を見出す人でした。 まずは帽子と洋服で成功を収めたシャネルがコスチュームジュエリー(ビジューファンタジー)をビジネスとして展開しはじめるのは、1934年のこと。 このシャネルのコスチュームジュエリーの成功を導いたのが、時の貴族で宝飾に非常に詳しかったエチエンヌ・ド・ボーモン伯爵やフルコ・ディ・ヴェルドゥーラ公爵。 またシチリア系貴族のヴェルドゥーラ公爵は、マルタ十字リリーフなどいくつかのデザインモチーフをシャネルに提供しています。 19世紀であれば、貧しい出身のシャネルがこうした上流階級と交わることは不可能に近かったはずですが、20世紀初頭のパリは新しい時代の息吹に沸いていました。 旧貴族階級が、若くて才能のあるアーティストを支援する傾向もあり、若い芸術家にとっては恵まれた時代といえるでしょう。 元情報はココシャネルを支えた貴族 シャネル・ヴィンテージバングルブレス ![]() |
アゲートとはメノウのことです。
メノウは日本でも古くから宝飾品に使われてきましたが、ドイツ、ブラジル、チェコのボヘミア地方などのもアゲートの産地として知られています。 ヨーロッパのアンティークジュエリーにおいても愛用されてきた石で、西洋のアンティークジュエリーに関して言及するときは、メノウというよりアゲートと呼ぶことのほうが多いかと思います。 もちろんその中身は一緒で、縞状の玉髄のこと。 日本語の瑪瑙という名前は、石の概観が馬の脳に似ていることからつけられたそうです。 一方英語のAgate(フランス語でもAgate)は、イタリアのシチリア島の同名の川でこの石がとられていたことに由来するそうです。 元情報はアゲート(agete)と瑪瑙(メノウ) アゲート(めのう)、バングルブレスレット ![]() |
マハラジャ(Maharaja)とは近代国家となる以前ムガール帝国治下の、インドでの地方領主のこと、意味としては、ラージャの中で特に強力な「大王」の意味になります。
近年文化的側面から、台頭するインドという国がクローズアップされ、ヨーロッパではここ数年インド文化ブーム、インドにインスピレーションを受けたものが流行するようになりました。 そんな中、アンティークジュエリーの専門家がひそかに注目しているのが、19世紀までにインドのマハラジャのために作られた宝飾品です。 マハラジャのジュエリー(こうしたインドのアンティークジュエリーは「マハラジャジュエリー」と呼ばれることが多いです)の魅力は何より、大粒で品質の高い宝石。 ルビーやエメラルド、ダイヤなどが西欧のアンティークジュエリーにないほど大きく、そしてカボションカットされていることが多いです。 マハラジャジュエリーの研究はようやく始まったばかりです。 こうしたインドのアンティークジュエリーは資料さえまとまったものがなかなか見つかりません。 インドの場合家族で宝石を受け継いでいくことがヨーロッパ以上に多いため、流通する数は少ないです。 こうしたマハラジャのアンティークジュエリーは、今後ますます高い価値が認められていくでしょう。 元情報はハプスブルク家 19世紀マハラジャ、ルビーペンダント ![]() |
ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系です。
古代のユリウス一門(カエサル家)の末裔を称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚(ルイ16世の妃マリー・アントワネットもハプスブルク家の出身)により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長します。 中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後のオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝を代々出しました。 後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)皇帝を中世以来つとめます。 神聖ローマ帝国解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から除外されるまで形式的には全ドイツ人の君主でした。 元情報はハプスブルク家 ロケットペンダント(ターコイズ、パール、エナメル) ![]() |
1925年にマルセルロシャスによってパリに設立されたブランド。
パリモード界の御三家と呼ばれています。 マルセルロシャスは、20世紀ファッションの多くを予言し、ディオールのニュールックのさきがけを作ったデザイナーとして知られています。 マルセルロシャス自身は1955年に53歳の若さで死去してしまいますが、その後はロシャスの妻が会社を引き継ぎ、ロシャス社からは優秀なデザイナーが生まれていきます。 代表的なロシャスのデザイナーに、ピーター・オブライアンやオリヴィエ・ティスケンス等。 オリヴィエティスケンスの顧客には、ニコールキッドマンやマドンナ、ジェニファー・アニストンなどがいることでも知られています。 元情報はロシャス(Rochas) Rochas(ロシャス)ネックレス ![]() |
オートクチュールの世界でよく言われるのが、「シャネルは女性に自由を与えた、サンローランは女性に力を与えた」という言葉です。
実際サンローランより人世代に生きたシャネルはサンローランを自らの後継者と公式に発言していました。 これはどういうことかというと、二人とも男性服を女性服に転換することで、女性に力を与えた、ということで共通するものがあるのです。 サンローランのオートクチュール界の功績は大きく、サンローランが2002年に引退したとき、オートクチュールの幕が閉じたと言われているほどです。 元情報はシャネルとサンローラン サイヴサンローラン・ヴィンテージピアス ![]() |
イヴサンローランの後に続くリヴゴーシュはもちろんRive Gauche、パリの左岸を指しています。
サンローランは、左岸のサンジェルマンディプレでメゾンをスタートさせます。 しかし、これはそれまでのパリのモードの人たちにとって驚きでした。 サンローラン以前のオートクチュールメゾンは、それまでは彼らたちの顧客である金持ち階級、ブルジョワ階層が通い易い界隈であるシャンゼリーゼ大通り近辺にしていたのです。 サンローランは当時、若者たちが集まり、実存主義が論じられ、モダンジャズが聞こえ、POPアートを取り扱い始めたギャラリーが増え、知的であり芸術的でアヴァンギャルドなエリアとなりつつあったサンジェルマンを、自らの血としたのです。 イヴサンローラン自身、自ら左岸に住み(彼がピエールベルジェとともに所有し住んでいたアパルトマンも両方左岸にありました)、左岸を愛し、左岸を代表するデザイナーでありつづけました。 元情報はイヴサンローラン・リヴゴーシュ イヴサンローラン・ヴィンテージぺンダント ![]() |
ココシャネルのジュエリーは、本物の宝石を使わない、あるいは部分的にしか使わない斬新なもので、当時大変センセーショナルでした。
例えばダイヤモンドを中心とする本物の宝石にフェイクのガラスや模造真珠をミックスしたりすることは、当時のフランスの伝統的なジュエリー製作において、反逆的でさえありました。 またスタイルに関しても、昔のゴールドジュエリーの製作に使われたフィリグリーの技術をゴールドメタルに応用したり、初期の頃にはビザンチンスタイルを多分に取り入れたり。 良いと思ったものは、素材の本物偽物を問わず、そして時代にもこだわらず取り入れたのが、シャネルです。 まだまだ階級社会の残る20世紀初頭のパリでわずか、20代で孤児から成功したシャネル。 そうした反骨の精神、好奇心の溢れたパイオニア精神も、当時のヨーロッパやアメリカの革新的な女性たちに圧倒的な支持を得た理由でしょう。 元情報はシャネルのコスチュームジュエリー シャネル(Chanel)Vintageネックレス ![]() |
「ローテク」と清潔でモダンなホテルが好きな人には、評判の悪かったパリのホテル。
それでも近年は、多くのチェーンホテルがパリの市内に目立つようになってきました。 大手チェーンなのでいわゆる「パリのプチホテル」に泊まりたい方には味気ないかもしれませんが、失敗したくないときにお薦めなのはアコー(Accor)グループのホテル。 ソフィテル、ノボテル、メルキュール、IBISはどれもこのアコーホテルズのチェーンです。 個々のホテルによって違いますが、ソフィテルとノボテルが4つ星、メルキュールが3つ星、IBISが2つ星になります。 元情報はフランスでアメリカンタイプのホテル 真珠、ガーネットネックレス ![]() |
1970年代のファッションは、ファッションの多様化が進んだ時代です。
デザイナーたちはそのインスピレーションをチャイナナルック、モロッコルック、インディアンルックなどの民族服等から得ます。 そうした「エスニック調」が隆盛する中、正統派のフランスシックも活躍し続けた時代です。 シャネルやジバンシィ、ランバンなど正統派のシックな洋服やジュエリーも支持されつづけます。 また70年代は、日本のデザイナーが世界のファッション界に進出したときです。 ケンゾーやイッセイミヤケはパリのファッション界で大成功を収めます。 また70年代のそのほかの特徴としては、スカートの丈がミニからマイクロミニ、調ロングと年毎にころころと変わったこと。 パンタロンスーツなどフェミニンなパンツスタイルが支持されるよにうになったことがあげられます。 ジュエリーに関しては、オートクチュールブランドが既存のルールに縛られず、そのメゾンの洋服にあわせた雰囲気のコスチュームジュエリーの製作に力を注ぎました。 元情報は1970年代ファッションの特徴 ランバンVintage、ネックレスブレスセット ![]() |
イブサンローランは、美術コレクターとしても有名でした。
2008年6月1日死去したサンローラン。 イブサンローランは長きにわたるパートナーであったピエール・ベルジェとともに、膨大な美術品をコレクションしていました。 そしてイブサンローランの死後の2009年2月、ベルジェの決意で、そのコレクションのすべてがクリスティーズ開催のオークションで競売にかけらました。 。収集品は700点以上に及び、イブサンローランとベルジェが長年にわたり、彼らが所有するパリ左岸の2つのアパルトマンに集めてきたものには以下のような美術品が含まれました。 ピカソ、マティス、セザンヌ、ブランクーシの近代美術、アールデコ、ルネッサンスの時代の彫刻、古代のコイン、アジア美術、フランツ・ハルスなどのアンティーク絵画等々。 落札価格は総計465億円にも上り、アンティーク業界で「世紀のオークション」と話題になりました。 元情報は水兵がモードを生む YvesSaintLaurent1980年代イヤリング ![]() |
2009年6月、フランスの海洋博物館では「水兵がモードを生む」というモード展が開催されました。
マリンルックとは、水兵服をベースにしたファッションスタイルのこと。 もちろん発祥の地はフランスで、その歴史は18世紀後半にまで遡ります。 しかし本格的にモード界に水兵さんの格好を取り入れたのは、もちろんココ・シャネル。 シャネルは、丈夫で着心地の良い水兵服に目をつけ、それまで女性の服に使用されることのなかったジャージー素材を取り入れ、窮屈な服から女性たちを解放します。 これが20世紀前半のこと。 そしてその継承者が、イブサンローランです。 1960年以来、イヴ・サン=ローランのファッションショーでマリンファッションが目立ち始めます。 元情報は水兵がモードを生む イヴサンローランVintageマリンブローチ ![]() |
本名はガブリエル・シャネル。
1883年二フランスノオーベルニュ地方に生まれます。 貧しい生まれで孤児院や修道院で育ちます。 10歳代でお針子となり、田舎町のキャバレーで歌手を目指して歌を歌っていたシャネル。 その頃歌っていた「Qui qu'a vu Coco(誰かココを見なかった?)」という歌のタイトルがCocoという愛称の由来のようです。 シャネルは現在でいうところの女性ベンチャー起業家。 20代でパリにお店を持ちます。 最初は帽子店でしたが、瞬く間に婦人服、ジュエリーを手がけるようになり、一躍モード界の頂点に上り詰めます。 常に時代の先端を読み、30代にはパリ以外のリゾート地へ進出して、ベンチャー企業家として数百人の従業員を抱え、モード界につぎつぎと新風を巻き起こします。 第二次世界大戦中はパリを離れて、1944年になんと70歳でカムバックを果たします。 最期のとき(1971年に88歳で死去)まで前線で働きつづけた稀代のデザイナーです。 元情報はココシャネル(Coco Chanel) シャネル・ヴィンテージチャームブレスレット ![]() |
言わずと知れたフランス、いや世界を代表する皮革製品ブランド。
その歴史は、1837年にティエリ・エルメスがパリに開いた馬具工房に遡ります。 当時からナポレオン3世やロシア皇帝などの、トップ権力者を顧客に持っていました。 より幅広い製品を手がけるようになったのは、ティエリの孫にあたる3代目エミール=モーリス・エルメスの時代。 1892年には、馬具製作の技術を基にエルメス最初のバッグ、サック・オータクロア(オータクロア)を製作。 1927年に腕時計、さらに服飾品・装身具・香水などの分野にその活動を広げます。 元情報はエルメス(Hermes) エルメス香水びんペンダント ![]() |
アンティークやヴィンテージのコスチュームジュエリーの素材として重宝された変色ガラス。
変色ガラスにも様ざまな種類があります。 代表的なものに、このピアスに使われている見る角度によって色が変化する「サフィレット(サフィリーン)」、闇に光る「ウランガラス」、オパールの輝きを似せて作った「オパレッセンスのガラス」など。 サフィレットは砒素を、ウランガラスはウランを混ぜて作るので危険があり、また各工房でそのレシピは門外不出であったこれらの変色ガラスは、そのほとんどは現在では製造されていない貴重なものです。 元情報は様ざまな変色ガラス サフィレットのシルバーピアス ![]() |
トパーズは、透明、黄、赤、紫、白など産地によって様々な色をしています。
その中でインペリアルトパーズとは、黄褐色から橙褐色の彩りのトパーズのことを指します。 クラックが少ない透明な結晶が採れることが少ないため重宝されていて、トパーズの中で一番価値のある色です。 トパーズは光によって変色しますが、インペリアルトパーズは長い時間光をあてても色が変わらないことが知られています。 トパーズには水酸基(OH)とフッ素(F)が含まれていて、普通のトパーズ(Fタイプ)はフッ素の方が水酸基よりも多いですが、インペリアルトパーズ(OHタイプ)では水酸基の方が多くなっています。 この差異が結晶構造の違いを生み、変色を抑えていると考えられます。 現在採掘される大半のトパーズが、Fタイプです。 元情報はインペリアルトパーズについて インペリアルトパーズ指輪 ![]() |
ダイヤモンドの中には蛍光性のあるものもあります。
ダイヤが紫外線を浴びてどういう反応を示すかということで、ダイヤモンドの中には青い蛍光性を示すものがあるのです。 特に蛍光性のあるなしか価格と連動しているわけではありませんが、 このダイヤの蛍光性、地域によって受け止め方は様ざまです。 例えばアメリカや日本はその珍重性から好みます。 しかし西欧では嫌がられることが多いです。 ちなみにこのダイヤモンドピアスのダイヤモンドに蛍光性はありませんし、アンティークのダイヤモンドの場合、蛍光性のあるものはあまり見かけません。 元情報はダイヤモンドの蛍光性 ローズカットダイヤダイヤモンドのピアス ![]() |
フランスのアンティークジュエリーで、ギリシャの影響が見られるジュエリーは、主に1850-70年頃のものです。
フランス文化は、ナポレオンのエジプト遠征時代によって、古代ギリシャやローマから多大な影響を受けます。 当時エギゾティックなアーカンサスの葉やパルメット模様、ギリシャの壺、凱旋門や鷲、月桂樹、ローマの文様などが好んでフランスのジュエリーに取り入れられました。 元情報はギリシャ模様 ダイヤ、トルコ石指輪 ![]() |
日本でも最近は格差社会の到来といわれていますが、フランスはずっと前から格差社会。
というより、階級社会がいまだ残った社会です。 そして上流階級の生活スタイルを表す言葉に「BCBG(Bon Chic Bon Genre」があります。 「シックで趣味の良いファッションやスタイル」といった意味の言葉です。 例えばファッションでいうと、「スカートにタイツ、そしてヒールのある靴にスカーフ」といったまさにフレンチマダムの王道をいくコンサーヴァティブなスタイルがBCBG流。 成金とは違う、華美すぎず、地味すぎないフランスのエレガンスを、ファッションやライフスタイルにおいて表す言葉です。 元情報はフランスの上流階級BCBG シンプルな18金ピアス ![]() |
若き日のギ・ラロッシュは、1950年代にディオールのメゾンでクチュリエとして働いていました。
当時、クリスチャンディオールには、イヴサンローラン、ピエールカルダンもおり、この才能あふれる三人のクチュリエたちは、ディオールの「若き3プリンス」と呼ばれていました。 ギラロッシュが1921年生まれ、1989年死去。 イヴサンローランが1936年生まれで、2008年死去。 ピエールカルダンが1922年生まれ。 同時代に生きた気鋭のデザイナーたちです。 元情報はディオールの3プリンス ラロッシュ・ヴィンテージブレス ![]() |
Guy Laroche(ギ・ラロッシュ)は1921年に、フランス、ボルドー地方、ラ・ロシェルに生まれます。
牧畜業の家で、父親はホテル経営者でした。 1949年から、パリでジャン・デッセに師事します。 その後、クリスチャン・ディオール勤務を経て、1954年に渡米します。 ニューヨークの7番街で3年間、フリーランスとして活躍します。 1957年帰国後は、初のコレクションを発表。 そしてフランクリン・ルーズベルト街で、オートクチュールのメゾンを開きます。 ギ・ラロッシュ本人の最後のコレクションは1989年で、1985年に続いて2度目のデ・ドール賞を受賞しています。 創造性ゆたかなデザイナーであり、著名な顧客にポンピドゥ大統領夫人などがいます。 元情報はGuy Laroche(ギ・ラロッシュ) Guy Laroche80年代ネックレス ![]() |
ギラロッシュが1985年と1989年に受賞したデ・ドール賞。
デドール賞とは、オートクチュールで最高の権威のある賞です。 フランス語でle De d'Or 。 Deとは 「指抜き」のことで、「le De d'Or」を直訳すると、「金の指抜き」という意味になります。 指抜きとは縫物をする時に、針を刺しやすくするためにはめる指輪です。 指に神が宿るということでしょうか。 元情報はデドール賞とは Guy Laroche、Vintageイヤリング ![]() |
イヴサンローランが最も愛した女性といえば(もっともサンローランは、生粋のゲイですが・・・)カトリーヌドヌーヴでしょう。
ドヌーヴとサンローランの付き合いは、カトリーヌドヌーヴ主演の「昼顔/ belle de jour(66)」でサンローランが衣装デザインを手がけたころに遡ります。 「昼顔」では、昼は貞淑な妻、夜は娼婦という二面性をもったカトリーヌ・ドヌーヴが見事に演じていますが、イヴ・サンローランのオートクチュール・ファッションが、息を呑むほどに美しい映画です。 ドヌーヴは特に60年代後半まで、サンローランのアイコンでありインスピレーションの源でした。 実際サンローランは「私はいつも、ドヌーヴをイメージしてデザインしている」と言う言葉を残しています。 対するドヌーヴは、「イヴは、ただドレスを作るというだけでなく、それをどのような女性が着るか、といったことまで探求してくれる人」というコメントを残しています。 そして国際映画祭などの晴れの席では、常にサンローランのドレスを愛用。 現在でもサンローランの香水や化粧品の広告モデルになっています。 元情報はYSLとカトリーヌドヌーヴ 1970年代サンローラン・イヤリング ![]() |
クリスチャンディオールにYSL、誰もが憧れるオートクチュール。
ではこのオートクチュールの洋服を実際に作っているのは誰なのでしょうか? ブランドがデザインして、その細かな指示を忠実に守りながら、以降の縫製の作業はいわゆる下請けの仕立てのアトリエが行います。 そして完成後ブランドの承認を得て、こうしたアトリエの作業は終了です。 ファッションの町パリにはこうしたオートクチュールを影で支える、仕立てメーカーが20件ほどあったそうです。 しかしその数は、近年のオートクチュールの衰退や経済環境から段々と減っているそう。 こうしたアトリエは代々家族で経営しているところが多く、例えば刺繍などの特別な作業だけに専念する職人、スパンコールを専門に扱う職人などをおいているアトリエもあります。 元情報はオートクチュールの担い手 YSLショー用ネックレス ![]() |
カルバンとは、1945年にマダム・カルバンが、パリのシャンゼリゼ通りに開いたメゾンがはじまりです。
シャネルに次いで2番目に古い歴史のあるオートクチュールメゾンになります。 白とグリーンのストライプを配したワンピース Ma Griffe(私の刻印)が当時のパリジェンヌにセンセーションを巻き起こしました。 その後、ショーを披露する度に注目を集め、フランスやイタリアのプリンセスのためにウェディングドレスを創るなど、世界各地の王室皇室がカルバンの顧客になります。 また映画「風と共に去りぬ」でスカーレットが着ていたドレスは、カルバンのものです。 デザインとしては「優雅さと清楚」をその原点としています。 マダムカルバン身長が155センチ小柄だったそうです。 当時では自分に似合う服がなかったことから、ファッションデザイナーを志し、自身のブランド「カルバン」を創設したという逸話があります。 小柄な女性に似合うブランドでもあります。 元情報はCARVEN(カルバン、カルヴァン) CARVEN(カルバン)60年代イヤリング ![]() |
アンティークウォッチというと、「お手入れが難しそう!」とイメージされる方も多いかもしれません。
しかし日々のお手入れでそれほど難しいことはありません。 日常の使用で付着した汚れを、柔らかい布、あるいはセーム皮で丁寧に拭くぐらいです。 これもゴシゴシ拭くというより軽く汗を拭く程度です。 宝飾品のお手入れとほぼ同じです。 ひとつだけアンティークウォッチは、防水可能がされていないものが多いので、水拭きは厳禁です! またそれ以外に使用中に時計の外装や、風防、ブレス部分を傷つけてしまったというような場合は、一般家庭で取れる傷ではございません。 プロによる研磨が必要になりますので、購入店にお問い合わせください。 元情報はアンティークウォッチのお手入れ レトロなアンティークダイヤモンド時計 ![]() |
ジャガールクルトの工房が解説されたサンティエは、スイスのジュウ渓谷にあります。
ジュウ渓谷は、スイス・レマン湖の北に位置する山岳地帯のことです。 現在でも、オーデマピゲ、ジャガールクルト、ブランパン、ブレゲ、ダニエルロート、ジェラルドジェンタゲ等の有名時計メーカーがこの渓谷の中心のジュウ湖周辺に集まっています。 ジャガールクルトはこのジュウ渓谷に工房を構えた最初の時計メーカーです。 言語的にはフランス語を公用語とするこの美しい山間の地は、時計発祥の地です。 そしてこの地が「時計の町」として発達することになったのは、歴史的ないきさつがあります。 17世紀、フランスから宗教的弾圧から逃れてユグノー教徒(プロテスタント教徒)がジュネーブに流れ込んできました。 その中には時計師も大勢混じっていました。 やがて、ジュネーブだけでは住むには足りず、ジュラ山脈の中にまで時計師達は住むようになりました。 閑静な山の中は、家でじっくり時計仕事をするのに最適な環境でもあり、この地から、時計産業が発達していくのです。 元情報はジュウ渓谷(Vallee Joux) ジャガールクルト・ダイヤモンドウォッチ ![]() |
イブサンローランを語る上で、ピエールベルジュという男性の存在は欠かせません。
公私ともに数十年に渡りパートナーであった、ピエールベルジュこそ、若き日のサンローランの才能を認め開花させ、 若くしてクリスチャンディオールの後継デザイナーに抜擢されたサンローランですが、アルジェリア戦争に徴兵されたことをきっかけに、一時精神をわずらいます。 そして1962年に2ディオールを解雇されたあと、PRマンだったピエール・ベルジュの説得と援助により、サンローランは、自身のメゾン「YSL」を立ち上げるのです。 ピエールベルジュはYSLの共同設立者となりその手腕により、YSLは数十年にわたり独立経営を貫きます。 2002年のコレクションを最後に現役を引退したサンローランは、モロッコのマラケシュで余生を過ごします。 もともとアルジェリア生まれのフランス人であったサンローランにとって旧フランス植民地の北アフリカは故郷的場所です。 2008年に死去するその数年間、サンローランハピエールベルジュ以外の誰とも接触をしなかったそうです。 ピエール・ベルジェはイヴ・サン=ローランの生涯のパートナーだった。 元情報はピエールベルジュ(Pierre Berge) YSLビンテージイヤリング ![]() |
クリスチャンディオールが1905年年生まれで、イヴサンローランが1936年年生まれ。
実に30歳以上の年が離れていた二人だが、若き日のサンローランを見出したのは、クリスチャンディオール。 イブサンローランは、17歳でデザイナーデビューし、2年後にはクリスチャン・ディオールがサンローランを、ディオールのメゾンに招き入れます。 この時サンローランはまだ10代とても若かったため、周囲はサンローランの起用に反対したと言います。 しかしディオールこそは自身のメゾンを発展させてくれるのはサンローランであると、信じて疑わなかったそうです。 ディオールはサンローランに関してこのような言葉を残しているそうです。 「彼には特別な才能がある。私は彼に認められたい」。 そしてサンローランは後年になり、ディオールについてこう語っています。 「私はディオールに魅了された。 彼の前で、私は話すことができなかった。 彼は私のアートの基礎を教えてくれた。 彼とともに過ごした日々は忘れない」と。 元情報はディオールとサンローラン Christian dior80年代イヤリング ![]() |
日本でヴィンテージジュエリー、コスチュームジュエリーと言うと、ミリアムハスケルやトリファリのコスチュームを扱っているのでそのイメージが強いかと思います。
しかしフランスでは、VINTAGEといえば、1960-70年代前後に活躍したクチュリエたちのブランドメゾンのものを指します。 その代表格がシャネル、クリスチャンディオール、イヴサンローラン、ランバン、ピエールカルダン等。 彼らの作ったジュエリーは、経済不況下のフランスでも大変な人気です。 もちろんジュエリーだけでなく、もとがクチュリエブランドですから、彼らのお洋服、バッグ、靴も大人気。 パリで開かれるヴィンテージのイベントはどれも大盛況、注目が集まっています。 元情報はフランスのヴィンテージジュエリー LANVIN60年代イヤリング ![]() |
































